




京都市下京区烏丸通七条。真宗大谷派の本山。1602年創建。
徳川家康の寄進を受け、第12代 教如上人が創立。「東本願寺」は通称。正式名称は「真宗本廟」。
本願寺はもともと親鸞聖人の廟堂として1272年に創建され、様々な理由で場所を転々とし、1591年に豊臣秀吉の寄進により京都堀川六条に移転した。11代法主の顕如の時代であり、以後は現在まで場所からの移転は無い(→いまの西本願寺)
顕如は1592年に入滅したため、長男の教如(強硬派)が本願寺を継承する。しかし、穏健派の直訴もあり、豊臣秀吉の命で1593年に本願寺宗主は教如の弟である准如(じゅんにょ)になり、教如は隠居させられてしまう。だが、教如は活動を辞めることなく、広範な宗教活動を展開する。
1598年秀吉没。1600年関ヶ原の戦い後に、教如は家康と接近し、1602年に徳川家康から京都七条烏丸に寺地を寄進され、1603年から御影堂、阿弥陀堂と造営し、1604年に完成し真宗大谷派の本願寺を成立する。
本願寺教団は1570~80年の石山合戦で織田信長との間に戦を行っている。顕如、教如父子は石山本願寺に立てこもり、信長と徹底抗戦している。1580年に顕如は講和を受け入れ、紀伊国に退去したが、教如は籠城を続けた。この時退去したグループは穏健派(表方)で、籠城したグループは強硬派(裏方)と二派に分かれ、教団内部でも分裂状態となる。これが、本願寺が東西分裂したもとといわれる。
具体化したのが、教如が家康から新たな本願寺の寺地を寄進された1602年であり、この時に本願寺は東西分裂したことになる。もとからあった六条堀川は「龍谷山本願寺」となり、新たに創建された七条烏丸は「真宗本廟」となった。
日本仏教学院HPによると、浄土真宗の宗派数は16(平成30年現在)であり、その中で浄土真宗本願寺派(西本願寺)が門徒790万人(全体の49%)、真宗大谷派(東本願寺)が門徒780万人(48%)となっており、ほとんどが西本願寺または東本願寺の門徒である。
浄土真宗の門徒が多い地域は、北陸(福井、石川、富山)、近畿(滋賀、三重)、中国(広島、山口)、九州(全県)。中でも北陸は非常に多い(約40%)。
余談だが、私の両親は真宗大谷派(東本願寺)である。私は引き継がず、神道を信仰する。
私は「2026年 京の冬の旅」の特別公開ツアーに参加し、通常非公開の大寝殿(おおしんでん)・白書院・宮御殿(みやごでん)・能舞台なども、常時公開の阿弥陀堂・御影堂・鐘楼とともに僧侶のガイド付きで見学した。
西本願寺と同様に、非常に寺が大きいというのが第一印象。また、誰でも無料で二つのお堂に参拝できることも同じ。お堂は毎日の僧侶の道場にもなっており、完全に生きて活動している寺だった。御影堂はたたみ927畳と巨大な空間だが、それでも重要な法要では、大勢の僧侶で立錐の余地なく埋め尽くされるそうだ。
阿弥陀堂は、御本尊阿弥陀如来が安置される。浄土の世界を表しているので、全体(壁、柱、欄干、天井)に金箔が張られ、煌びやかな装飾となっている。
これに対して御影堂は、道場の位置づけで質素な装飾となる。御影堂は世界最大級の木造建築。親鸞聖人の木像が安置されている。
御影堂に通ずる御影堂門がとても大きく装飾も立派だった。
特別公開中の建物には、枯淡な墨絵の日本画や色彩豊かな襖絵などがあり、それぞれが美しく落ち着いた空間だった。
能舞台ではよくNHKドラマの収録が行われるそうだ。最近では2025年の大河ドラマ「べらぼう」の第一話に出てくる江戸城内で将軍や田沼意次が能を観る場面が収録されたそうである。
古い文化財は鑑賞するだけではなく、時代劇作成のための貴重な場として役立っているのだなぁと新しい発見をした。











大寝殿の竹内栖鳳(たけうちせいほう)の襖絵














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